『不可視化した境界』


今となっては本当に遠い昔のような話だが、この東京にも、かっては「ツッパリ」というライフスタイルがあった。一九七○年代後半から一九八○年代前半にかけて、上野・池袋・新宿といった東京の繁華街には、超ロングスカートのセーラー服で、薄くつぶした学生カバンをひらひらさせながら歩く女子高生たちの姿が、ごく普通に見られたものだ。


当時さかんに行われていた規律検査は、実質上この「ツッパリ.スタイル」を摘発し取り締る行為だった。教師たちは赤いマジックインキで印を付けた物差しや竹の棒を持ち、講堂に整列した女生徒のスカート丈をチェックした。インキの印が、学校の示す「規範」のデッドラインだった。そして、印より下にはみ出したスカートの布地の面積が、生徒の「逸脱」の程度に換算された。

このように、当時の学校では「ツッパリ」と「ふつう」との境界が、目に見えるものとしてはっきり存在した。しかもその境界は、ツッパリの側から、より強く引かれたものだった。そこにいたる事情はどうあれ、彼女たちにとってツッパリとは自分で選んだポジションであり、例の特異な制服の着こなしは、一種の態度表明だったのだ。学校が示すモラルの枠から逸脱するかわりに、彼女たちは自ら選んだツッパリとしてのモラルには忠実であろうとした。だから、単なるファッションや憧れでスカート丈を伸ばすような「ハンパ」な生徒には、容赦なくヤキをいれた。

ともあれ、逸脱していることを、生徒自身が制服の着こなしによって自己申告してくれるのだから、学校側としてはこんなに楽なことはない。「服装の乱れは心の乱れ」という標語のもと、カタチから入る生活指導が徹底的に行われたのが、この頃だった。

さて、もちろん現在の状況は、教師にとっても女子高生にとっても、こんなにシンプルではない。制服の着こなしや化粧の状態を見て、その生徒が集団の中からどれほど逸脱しているかを判断することは、今や教師にも親にも至難の技となっているようだ。

逸脱の程度が外見で判別しにくくなった主な原因は、三つ考えられる。第一には、逸脱のもっとも分かりやすい目印だったツッパリ・スタイルが、東京から消えてしまったこと。第二に、逸脱していない「ふつうの生徒」とはどんな姿をした生徒なのか、教師も親も、そして生徒たちでさえイメージできなくなっていること。ツッパリ・スタイルという異端が消えると同時に、ふつうの女子高生像も消えてしまったのだ。そして第三の原因は、前述の二つの出来事を生んだ原因でもある。すなわち、八○年代中期に始まった、制服のモデルチェンジ・ブームがそれだ。

制服の着こなしを基準にした生活指導が、いかに無力になっているかを示す興味深い工ピソードがある。渋谷区のある私立女子高に通う生徒から間いた話である。

タイムカードで生活管理をするなど、以前からしつけの厳しさで知られたこの学校では、六年ほど前に制服のモデルチェンジをおこなった。タータンチェックのスカートにエンブレム付きブレザーというニューモデルは、また多彩なオプション・パーツの組み合わせにより、何十通りもの着こなしが可能であることも、大きなセールスポイントだった。

学校の思惑通り、生徒たちは思い思いの色や柄のリボンやベストやコートを身につけて校門をくぐることになったが、やがて困った事態がおきた。指定のオプション品を着用している生徒が、生活指導の教師に校則違反でチェックを受けたり、逆に違反の私服セーターを着ている生徒が、見逃されたりするようになったのだ。皮肉なことに、制服を決めた学校自身が、あまりのバリエーションの多さに、全体を把握できなくなってしまったのである。

現在、この女子高の生徒たちは、極端に短いスカート丈にふくらはぎまで伸ばしたルーズソックスという最新流行のスタイルで、渋谷や原宿の街を元気良く遊びまわっている。受験案内の制服写真とは似ても似つかないその着こなしを、学校側がどこまで容認しているのかは知るよしもないが、少なくともモデルチェンジ以前の厳格な女子校の面影が、微塵も感じられないことはたしかである。

オプション品を選ばせることで生徒に見せかけの自主性を与えたり、タータンチェックで名門校を装ったりといった、私立高校の生徒獲得目的の戦術。それは物欲しげであるだけに、たいていの場合女子高生にまんまと逆手に取られる結果となっている。長いスカートで教師の反感を買うよりも、かわいいタータンのミニスカート姿で世間の男性の注目を集めた方がよっぽど得だということに、彼女たちは気がついた。かくして東京のッッバリは滅び、ふつうの生徒と逸脱した生徒との境界は、限りなくぼやけていったのだ。

前にも述べたように、ふつうの高校生から外れた何物かになりたい、またはならざるを得ない、という心情を表現したのが、かってのツッパリ・スタイルだった。それだけに、彼女たちは「ふつう」と「自分」との距離感を切実に感じていたし、「ふつう」から離れたこの場所でどう振る舞うべきかという彼女たちなりのモラルを真剣に考えていた。この距離感が、今の女子高生には決定的に欠如しているように思える。生徒自身が中心からの逸脱距離を実感することができない以上、そこにモラルが介在する余地もない。したがって、どんなに非常識な行為をした後でも、平気な顔で日常生活に戻ることができる。

「ブルセラ・ショップに出人りする女子高生を取材してみて、彼女たちの行動基準が普通と全然違うことが分かった。やって良いこと悪いこと、ではなく、それをやったら危ないか危なくないかで、彼女たちは動いている。なんだか動物みたいだよね」

先日、ジャーナリストの武田徹氏に会った際、彼は最近の女子高生についてこんな話をしてくれた。「ふつう」からの距離感を喪失した彼女たちは、危険を察知するそれぞれのアンテナによって、かろうじて自分自身を日常につなぎ留めているのだろうか。だとすれば、その逸脱ぶりをどんなに非難されようとも、とにかく自分の座標だけははっきりしていた「ツッパリ」のほうが、ある意味ではるかに楽な生き方だったのかもしれない。

     『季刊こども学』ベネッセコーポレーション 1994年

Posted: 水 - 10月 20, 2010 at 02:25 午前          


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